昭和43年6月20日 夜の御理解
人間の幸せは、信心をして神徳を身に受けるということ以外にはないと私は確信しておる。信心によって御神徳を頂かなければ、人間の幸せはないと、これはまぁ私の確信です。
そこであの、私思うのですけれどもね、折角信心させてもらうのでございますから、信心の徳を受けさせて頂くための信心をしみゃいけない。だから信心しておかげを受けていっておるというだけではお徳にはならん。
ですからどうでも、御神徳を受けるという事によらなければ、あの世にも持っていけるという事にはならんし、この世に残しておくということも出来ないし。自ら、自身としても、おかげの真実心のそこから幸せ、いわゆる有り難いなぁというものが生まれてこない。
私は本当に感心することがあるんですけどもね。あの信心のない人でも非常に修養の出来た人がある。例えばあの、非常にこの道徳を重んじるというですかね、修養家という人がありましてね、なかなかその修養好きな人があって。神様やら仏様に手は合わせんけれども、修養好きちいうね、というような人達があります。
まぁそういう間違いのない、修養しておるということが、間違いのない道と思うておるですから、ね、それは神やら仏やらでも祈らんでも、ちゃんとその幸せになれるという風に思っておる。
ところが果たしてそれでは、幸せになれていないという事実はね、これはあまりにも沢山あるわけでございますが、私は思うですね、例えばあの、ここにこういうような、「人を責める前に己を責めよ」と、これは(私いう?)ある人が頂いたご理解ですけどね、これを人を責める前に、己を責める。
というようなことはこれはあの修養の言葉にも、修養の中に、修養する人はぜひこういうような生き方をするだろうと思うですね。人を責める前に自らを責める。ね、人には春の日のような、まぁ豊かな心で接し。自分には冬の朝の、まぁ霜の朝のような厳しさで自分に、自分を見るというようなことになるんですけれどもね。
私はようそういうような、ことだけでそれを(やりつ?)例えばあの、孟子様とか孔子様ならいざ知らず、皆がそれだけでですね、まぁいうならば私は小学校の時に習った(修身科?)のようなことをですね、そのいわゆる身を修めるために、それだけに専念できる人があると。
ところがそういう人に限ってですね、偽善かが多いというということですね。例えばなら(修身科?)の先生をしてござるとやけん、そうにはもうこう傑物の、その堅物のように思うとるですね。
私達の小学時代にもあったです、そりゃもう本当に良い先生であり、もう先生からもですね、生徒からも親達からも信用された先生があったんです。本当に今考えても立派だったと思うんですよ。
ところが、ある学校へ転校されたのが、まぁ符が悪かったわけですね。そこで若い女教師と心やすなってから、とうとう校長の、それも止めさせられ。それから世間では、それをどこさえ行きなさったか分からんぐらいなっとる。
だからね、その、そりゃもう本当に昔の、例えば今と違って男女の(道?)なんかでもそりゃもう大変厳しく、まぁいうたり教えたりされた時代です、だけれどもですね。これはその、ただ修養だけではね、つまらない。いや実際人間はですね、それだけでは支えることが出来んのじゃなかろうか。
特別な、それこそ孟子様、孔子様でない限りですね。ところがその、これが信心になってまいります場合ですね、これはやっぱり同じような修養的な、また実際修養なんです。修養だけれども、そこには信心というものが、神様というものがある。
例えば信心の心得の、一から、一、二、三を読んでみましてもですね、信心は家内に不和のなきがもとなり。例えば、信心じゃなくても、家内に不和のなきがもとと言うことは知っておる人がどのくらいあるか分からんです。
もう家の中が円満で行くと。けども、この教祖は、こう信心はとこう上に、こりゃ信心だから当然つけられるわけですけれども、次には、真の道におれば第一に、心の、お互いの雲を払えよと。この真の道ということを、に入らば、お互いの雲を払えよと仰っておられる。
真に有り難いと思う心、直ぐにみかげの初めというようにその、真に有り難いというようなものはですね、これはもう信心によらなければ頂けないものです。これは結局神様が下さるものだということが分かる。
信心させて頂きよると、何処から湧いて来るか分からん、有り難いというものに、触れられる。真の道を歩かせてもらいよるということが、本当に有り難い。ですから、ここんところを、私は信心がなくて、その修養を積んでいかれる人達は、もしそれ積んでいかれておるなら、偉いなぁと思うです。何故ってその修養を積んでいくだけで、それにはね、信心で言うところのご利益というものは全然ともなわないのですから。
私達の場合なんかも、ご利益がとものうとるから、実をいうたらですね、ご利益がもうはっきりこうともなうから、その一生懸命になる事も、陰と日なたの心を持つまいというように、勤めることも、ね、本気で信心を(しよらせて?)頂こうという気にもなるんですけれどもね。
そういうおかげがともなわないのに、その修養をしておる人達は、そのとても偉いと思う。ですから、偉くない人は、場合には偽善かが多いんですね。人の前だけは、あの人はなかなか修養かだと。ね、えー(テープがおかしい)
修養しておるから、もう人の前では、水の漏らさんようなことを言うたりしたりしておるようでるけれども、一度その陰の方に回ると、どげなことしとるか分からんというような人達が多いということですね。
ここんところがね、信心させて頂く者は、まぁ信心のない人達よりも、そこを大事にすることが出来るおかげ、それはもうさえておかげにね、おかげに関係して来るからですよ。
今、御祈念にかかる前、善導寺の原さんが、今朝頂かれたということなんです。ある人がそのてんぷらをこう食べておる。てんぷらといや、てんぷら信心というのは、見掛けばかりで中身がないって言うか。
この人は朝参りようお参りしござるとに、そうじゃろうかとこう思うごとあった。表面から見らにゃ分からん。ね、例えば信心をしておってもですね、ただ表面の信心だけであっては、これはまた、まぁ私はそれは不思議でたまらない。それだったらはっきりおかげの方に見えて来るんですからね。
いうなら、例えばあの時計が、誰が見ても時計であるけれどもです。中にもしネジがかかっていなかったらです、あの分秒を刻む針が第一動かないです。ですから、私共が例えばおかげの方が止まっておると、自分の心の中におかげを感じられないと、真に有り難いというものも、何も感じられない時には、裏をひっくり返して見る。自分の心の中をひっくり返して見ると。油が切れておったとか、はー発条が切れておったとか。ここがこういうことではおかげの頂けんはずだというものを発見する。
それが修繕される時に、油がさされる時に又カチカチとこう動いたり。というほどに、信心というものは、もう間違いのないものなんだ。ですから楽しい。ですから私は、あの神徳を身に受けて行くという信心でなからなければいけないということを思うのですね。
信心のない人達が、修養というけれどもね、それはなるほど有り難いことだと。修養していきゃ、いうならば内輪も、内輪中の者が修養していきゃこっとるともいわん。ね、お互いが助け合うていくというようにしていく事は良いけども、これは(正して?)あのご利益にはつながらない。
信心は、そのご利益につながる。だからそのご利益を下作なもんだといやですね、これは仕方がないけども、そのご利益というのは、実をいうたら何かというとですね、そのご利益こそが、実をいうたらそこを受けていける印なんです。ご利益は例えばどうでもですね、信心の徳が身に付いていきよるから、その信心にそのご利益というものは、頼まんでもついて来ておるようなもんです。
そこで私達が信心の稽古をさせて頂く者がです、自分達の信心が、果たしててんぷら信心じゃなかじゃろうかというようにです、何時も中身を改めていかなきゃいけないと思うですね。
自分の信心が、ほんなもんであるか、ほんなもんでないかということ。人が見たところでは、そのあなたのような真似できんと人から言われてもです、自分の心の中をのぞいてみてですね、いよいよ自分の心の中にね、豊かさがいよいよの時になかったり、いよいよの時に慌てたり、自分を失ったり、例えばするような内容が自分の心の中にあったらですね。まずあなたの信心はてんぷら信心だと悟らにゃいけんと思うですね。
梶原 佳行